2012年9月8日土曜日

第1回同窓会『牛田中学校 創立当時の思い出』

第1回同窓会DVDより 『スライドショー 牛田中学校 創立当時の思い出』

説明 升田先生、操作 高橋さん


つづいて、牛田中学校の歴史を映像で振り返ってみましょう。これは、牛田中学校開校当時、教鞭をとられていた、升田 猛先生が大切にお持ちになっている資料を1回生の高橋 幸男さんが今日のために編集したものです。編集された高橋さんが牛田中への思いを「カラタチ」と題した文章にしてくださいました。



「カラタチ」

あの頃は 何もわからず ただただ若かった

重い鞄を手に持って カラタチの鋭い棘のある長い生垣の傍を通った
そのちょっと先の 急な坂道を登った処に学校があった

春 季節は巡り桜の花が彼方此方で仄かにけむった
やがて初夏 カラタチが白く甘く咲き匂った

夏 季節は到来し入道雲がむくむくと沸き立ち昇っていった
やがて晩夏 カラタチにナミアゲハが飛来し産卵していった

秋 季節は再来し鎮守の森からお囃子が鳴り響きわたった

やがて晩秋 カラタチに黄色く丸い実が鈴生りになった

冬 季節は去来し北風寒く栴檀の実にムクドリが群れ集った

やがて晩冬 カラタチの鋭い棘が力強くフォルムを飾った

あの頃は 何もわからず ただただ若かった

重い鞄を手に持って カラタチの鋭い棘のある長い生垣の傍を通った
そのちょっと先の急な坂道を登った処に学校があった

半世紀が過ぎ去った カラタチの鋭い棘のある長い生垣は 今はない

半世紀が過ぎ去った カラタチの鋭い棘のある長い生垣はもう見られない

2012年7月24作 高橋 幸男


『創立当時の思い出』

牛田中学校が誕生するまで、長い道のりがありました。
用地を確保するまでのことは、時間の関係で割愛します。


戦後の教育制度改革、即ち、昭和22年の6、3、3制実施で、広島市は、どこに、中学校を設置するか協議された際、牛田の神田山が候補に上がりました。広島は、原爆で、市内の殆どの学校が、焼失、倒壊し、これを再建、復興するのに、莫大な経費を要するため、新制中学校は、最小限の7校、即ち、段原、観音、翠町、宇品、幟町、江波、庚午と決まり、牛田地区は、幟町中学校へ通学することとなり、牛田神田山の案は見送られました。

昭和28年頃、幟町中学校は生徒数が2、000名近くになり、牛田中学校新設の話が特上り、現地調査、建築の計画も立てられましたが、市財政の関係で、実施をみませんでした。昭和34年、第一次ベビーブームで、やがて幟町中学校は3,000名となり、マンモス校に成る為、牛田中学校新設が、市議会で認められ、予算化されて、やっと実現する運びとなりました。


昭和34年、予算が通過するや、早速設計段階で出来たのが、この完成予想図です。
昭和38年9月にはプールを除いては大体この通り完成しました。
当時他校は、プレハブや応急対策校舎が多かったのに比べ、大変デラックスで豪華な鉄筋コンクリート4階建でした。


昭和35年4月28日から校地造成が開始され、陸上自衛隊中部方面隊、第101建設大隊約50名が戸坂小学校体育館に駐屯、宿泊し、大型建設機械を駆使して3ヶ月後の7月22日には校地が施工しました。
当時周囲には民家は殆どなく、日通時と周囲の墓地だけでした。左側に見えるのがユースホステルです。
はるか前方に見えるのが、日通寺、太田川です。


校地造成記念に、自衛隊は工事中に山から出た石材を使って施工記念碑を建てました。
今も校門を入って左側にあります。校門右側の山の斜面を利した築庭も、校地から出た石材を利用したものです。


校地が出来ると、直ちに第1期工事に着手し、翌昭和36年4月には工事が完了しましたが、
第2、3期工事未完の為、1年間は幟町中学校、牛田分教場として、
牛田、戸坂地区の1、2年生を収容することとなりました。


幟町中学校から、牛田分教場勤務を命じられた8名の教職員は、幟町中学校から分教場へ、机、椅子、その他備品類を1年生入学式に間に合うよう、運搬作業に従事しました。


昭和36年4月7日、牛田、戸坂地区の1年生321名が入学し、1期工事の完成した新校舎に入りました。
この写真は、1年生の入学式です。建設資材が積み上げられた中での入学式でした。


これは分教場時代の職員写真です。校長は、幟町中学校長の田中元逸氏兼務、分教場主任には県教委の吉野時弘氏が発令され、総勢19名でした。


第1期工事が完了するや直ちに、昭和36年4月第2期工事の起工式、地鎮祭があり、工事が始まりました。


第2期工事中の運動場で、建築資材が積み上げられたそばで1年生が体育の授業をしていると、付近の山から運動場に野兎が出たので、皆が授業を止めて、兎を追っかけた事もありました。「ふるさと」という歌に、兎追いしかの山という歌詞がありますが、まさにその歌ずばりでした。


昭和36年11月第2期工事が完了し、それまで幟町中学校で待機していた2年生が分教場に移転してきました。4月から授業していた1年生との対面式が運動場で行われました。


1、2年生が合流したので12月2日、運動場で第1回の大運動会が開催されました。昭和37年からは、観音町の県総合グランドに会場を移し、体育記録会型式の体育大会が実施されました。


昭和37年4月、新しく牛田中学校として独立し、新1年生が入学し、1年生316名、2年生321名、3年生317名合計954名の新牛田中学校が誕生したわけです。開校式は、4月21日、校旗の入魂式と同時に挙行されました。


初代校長には前幟町中学校長田中元逸氏が着任されました。
これは昭和47年の職員写真です。総勢38名でした。


昭和37年4月第4期工事として着工された体育館は、11月完成し、落成式には元文部省大臣瀬尾弘吉氏、元広島藩主浅野家14代当主浅野長武氏が(国立博物館館長)来賓として臨席され、浅野氏がこの体育館に「思道館」と銘名されました。
プールは昭和38年9月に完成し、観覧席のついた立派なものでした。


昭和39年11月11日、当初計画された校舎、体育館、プール、運動場が完成したので、校舎落成記念文化祭が3日間に亘り開催され、PTAをはじめ、多くの参観者がありました。書道、美術、演劇、その他各教科の展示、発表は好評でした。


昭和40年4月、第2代校長浦池玄三郎校長が就任されました。
これは昭和40年度の職員写真です。


昭和40年6月、当時の文部大臣、中村梅吉氏、外文部省の係官が、本校を視察されました。この写真は、体育館のロビーからプールの説明を聞いておられるところです。
現職の文部大臣が直接学校を視察される例はあまりありませんでした。体育館で全校生徒にも声をかけて頂きました。


これは、現在の牛田中学校正面写真です。


この写真は、運動場側からみた体育館、校舎です。現在のプールは左側山手側にあります。


以上でスライドの説明を終わりますが、昭和47年には、戸坂中学校が分離独立し、平成7年には、牛田早稲田中学校が分離独立し、現在の通学範囲は、創立当初に比べ狭くなり、自転車通学もなくなりました。

また、学校の北側には、商業高校が、南側には牛田新町小学校、教育センター、研修センター、老人ホーム、神田山荘と多くの施設も出来、また、周囲も宅地開発され、当時と比べ今昔の感があります。現在牛田中は608名、19学級です。

過去50年間、牛田中学校の伝統と誇り高き歴史の中で育くまれた16,200名の卒業生は今や各界で活躍しています。今後、益々の充実、発展することを祈念いたします。

最後に、創立に当たり、多大の貢献をされた、初代PTA会長任都栗氏、元文部大臣瀬尾弘吉氏、元広島藩主14代当主浅野長武氏の功績を忘れることはできません。

追加説明:牛田中学校と旧広島藩士浅野家とのつながり(絆)
①牛田中学校の敷地は、元浅野家の所有地であったが、昭和19年に広島市に寄付されたものである。(63,886坪)

②昭和36、37年当時、新山墓所(学校の下にある森)は、歴代藩主12人の中、10人の墓、その他家族38人の墓があります。この墓所の清掃に生徒が奉仕しました。

③毎年8月に浅野長武氏が東京から墓参に来広されました。その時の休憩所として、牛田中の校長室をしようされていました。150年前、当時、広島藩の家老、重臣の末えいがここに集り、懇談されました。

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