2016年1月31日日曜日

母校から見立山(みたてやま)へ

先日、濱田元校長先生や宮奥教頭先生ら数人で見立山に登りました。
見立山は、牛田小学校の校歌にも登場する歴史のある場所です。
途中、由来の看板がありました。

見立山へは、母校から神田山をさらに牛田新町小学校、神田山荘、広島市研修センターの前まで登ります。



 広島市研修センターの前から遊歩道に入ると、すぐに「牛田総合公園」が現れます。




この案内板から階段を上がり、右へ進むと2分くらいで見立山山頂に出ます。


確かに広島の三角州が一望できる絶景でした。
(広島市研修センターからは徒歩で5~10分です)
 
*「神田山」について、少し調べてみました。広島市 南区宇品神田町に所在する神田神社の宮司さんが執筆された次のような記事がありました。(広島市ミニガイド)
「宇品の電車通り沿いにある神田神社は、広島市街で最も由緒のある神社のひとつであり、市内の山や橋などにその名を残しています。
江戸時代に太田川三角州に架かる大きな7橋のうち、最も長い60間(109m)の橋であった神田橋は当時、牛田にあった神田八幡宮への参拝路として利用されていました。(芸藩通志)
そのほか、神社の裏山は神田山、移転先の宇品では、宇品神田の町名や停留所名、通り名などになっています。」
「神田神社は、文亀(ぶんき)3年(1503)当時祇園町の武田山にあった銀山城の城主として安芸の地を治めていた武田元繁公が祖国甲斐の国、今の山梨県からお城の守り神として牛田村神田に奉遷したのが始まりといわれています。当初は神田八幡宮と言っていたそうです。」
「最初は、現在の東区牛田にある東区スポーツセンター付近に建てられました。その後、武田氏は毛利元就公に滅ぼされ社殿は荒廃しました。しかし、元就公の孫の毛利輝元公が広島城に入ると輝元公は天正19年(1591)に荒廃した社殿を見かねて建て直し、守護神として祭りました。」
「神田神社は牛田村の産土神(うぶすなかみ)、いわゆる氏神様として牛田地区の村民によって祭られるようになりました。
その後、元和5年(1619)浅野長晟公の入城と共に、長晟公は福島公とは反対に、各地の神社に金品を寄進し、神社は立派になっていきました。
今の神田橋というのは、神田神社等に参拝するために架けられたものです。神田山という地名も神田神社に由来していると言われています。明治3年社名を神田神社と改め現在に至っています。」
「明治22年(1889)神田神社の領地は旧陸軍省の軍用地となり、神田神社は牛田村、白島町、宇品町の三町村が協議の結果、当時広島県令であった千田貞暁公が造った新開地である宇品へ移転し、その護持を宇品の町民にまかせるようになりました」
 
 
 
 

1 件のコメント:

  1. お疲れ様です。
    ブログ掲載も何かと大変ですが、
    頑張って下さい。
    21期生 木戸

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